シュレディンガーの名著『生命とは何か』の第一章について

最近、シュレディンガーについて友人と話し合う機会があった。
話の内容は『生命とは何か』という本の第一章の書き始めだ。

シュレディンガーは大学の1年生の物理化学の教科書に登場する偉人である。
シュレディンガーの行った業績の一つはニュートンが築いてきた古典物理学を量子力学に広げたことである。
晩年のシュレディンガーの興味は物理から生物にシフトしていく。

はじめの書き出しにある面白い文章、それはデカルトの名言”我考う、故に我あり”である。
唐突にこの一文がはじめに出て来るのだ。
ここで色んな解釈ができると思うけど、良い書き出しだと思う。

僕がこの文書を始めに見た時に思ったのは、編集者とシュレディンガーはどんな対話をしこの文章を入れたのだろうかということ。
”我考う、故に我あり”とはすべてを方法的懐疑を突き詰めると自分自身の存在も疑わしくなるということ。そして、自分が考えているとい行為自体が自分が存在する証明になるという話。
僕的にはデカルトの名言を始めに入れた理由は、シュレディンガーが物理の観点から生命の本質を考えたときにデカルトの思考をある意味で超えられるということを示している気がする。

デカルトは1596~1650年代の昔の物理学者であり、一方でシュレディンガーは1887-1961年代と300年ほど違うのだ。
シュレディンガーの時代には体を構成する要素は原子で構成されていることがすでに知られている。だから、デカルトの言葉”我考う、故に我あり”はシュレディンガーはとても疑問を持っていたのではないだろうか。
シュレディンガー的に生命は精巧にできた原子の塊で、確立論的に状態が変わる。考えている思考もある意味化学の現象の一部に過ぎないと考えていたのかもしれない。

これは、僕の考えで確かなことは分からない。
でも、デカルトとシュレディンガーの考え方は大きく違うと思うのだ。

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